安楽寺 沿革
〜由緒〜
当寺開基は了順、寛永年間に創立というが詳しい年歴は判明しない。
肥後国益城郡隈庄城主「甲斐守政の臣」伊津野對馬二男、伊津野次良兵衛、出家して了順と法名して、赤見村に一庵を構え居住す。
当初から真宗本願寺派に属し、本尊阿弥陀如来立像は惠信作、蓮如上人筆六字名号等を伝えている。
仏師惠信とは・・・・約370年前の寛永年間(1634年~1647年)三代将軍徳川家光公が、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。当時岩槻は、日光御成街道の江戸から最初の宿場町であったため、東照宮の造営や修築に携わった工匠たちの中にこの土地に住み着いた者も多く、その人々が付近に数多く植えられている桐を使って箪笥などの製品を作るようになったと言われています。その中には人形づくりをする者もいて、その技術を広めたといわれます。 新版風土記によると、元禄10年(1697年)京都堀川の仏師恵信が岩槻で病に倒れ、時の岩槻藩主小笠原長重氏の藩医の治療を受けて回復後も岩槻にとどまり、付近で産出される桐粉に着目し、しょうふ糊で練り固めて人形の頭を作り始めたと言われています。
系譜開基 了順(寛永年間)寛永元年(西暦1624年)370年~390年前
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第二代 了雲 寛永21年(西暦1644年)
第三代 惠然
第四代 義禮
第五代 義空
第六代 智明
第七代 等
第八代 持法
第九代 法雨
第十代 隆道
第十一代 正道
第十二代 法雄
阿弥陀如来台座の記載
【台座背面】 【記事】
天保十一 子庚 庚子(かのえね・コウシ)
初賜 下旬 (西暦1840年)
明治十丁丑 治十年丁丑
御箔替○造 (ひのとうし・テイチュウ)
明治10年(西暦1877)
【台座内側】 【記事】
明治 廿八年九月廿三日 明治28年(西暦1895)
すぬぎ見眞大師 本ずし供
願主 九世 住 法雨
惣平
重蔵